グリッドマンはなかなか良いぞ
もくじ
最近は親子でグリッドマンを見ている
子どもの頃、僕はウルトラマン派だった。
仮面ライダーも流行っていたが、圧倒的にウルトラマン派だった。
なぜって、当時の僕にとって仮面ライダーは改造される描写が生々しくて
まあ恐かった。
自分が改造されるのも、誰かが改造されるのも。
イーとか言ってる構成員になってるのも元人間なのか、と思い至ってからは
その心情を想像する都度恐くなっちゃって、とても観れなかった。
今になって原作を読むと、とても出来のいい話だって事がわかるけど、当時は夢に見るほど恐ろしかった。
それでも未知の生物や正義の為に戦うヒーローの姿は眩しくて、熱中して見た。
いつしかごっこ遊びにも加わるようになり、そんな怖さも気にならなくなっていった。
時は流れて、今僕には息子がいる。
今の仮面ライダーはそんな生々しくもなくて、ウルトラマンもより複雑なストーリーを語り始めていた。
そんな今、僕は妻、息子と一緒にグリッドマンを楽しんで観ている。
同じストーリーを、別の景色を見ながら。
きっかけ
きっかけは息子が怪獣とかモンスターハンターなんかに夢中になっていて、過去のウルトラマンシリーズを見返していたりしている時に、過去に実写でやっていたグリッドマンがアニメになっているというので見てみることにした。
オープニング曲の盛り上がりや過去のウルトラマンシリーズを彷彿とさせる演出に引き込まれて見続けるうち、親と子では別の視点で観るようになっていたのであった。
僕たちは自分の世界で生きている
息子はウルトラマン然とした登場や仕草など演出や怪獣の動きなど、アクションを楽しんでいたようだが、僕としては話の構造が気になってきていた。
この話には明確な悪役は出てこない。
怪獣は人間のエゴや罪を象徴した存在ではなく、生き方を戒めるような話の構造ではない。
それは主要人物の一人の女の子によって生み出され、世界はリセットされ続ける。
おそらく気にいるように再編成された世界は、やればやるほど微細な部分が気になってやりたいことから外れていく。
そうした再編って永遠に続く無間地獄みたいなもんなんじゃないかな。
訂正すればするほど描きたかったことから離れていく文章は、ある程度のところで良しとしたり元に戻したりできるけど、世界が対象だと途中でやめるわけにはいかないから辛いんじゃないかなーなんて思う。
この行為なんだけど、要は世間に飛び出して、他人との軋轢の中で自分の価値観が否定されるのが恐くて、必死に自分の世界を守ってる高校時代そのものなのかなあって。
何か自分の価値観を否定する?ような意見とか常識が現れた時に、自分を守る為に必死にする論理武装とか反抗とか、そういうものを連想しちゃって、ちょっとほっこりしちゃいました。
僕たちは僕たちの認知する世界の中で生活していると言えます。
だから考え方や捉え方を変えるだけで生きやすくなったり、辛くなったりするんでしょうけど、分かっていてもなかなかそうは行動できないのが常です。
でも、えいやって思って行動する時がきて、やってみると思ってたより簡単だったりして、なあんだ、恐くなんかなかったじゃん。みんな同じじゃんって安心して、自信を持ったりします。
その「えいやっ」ってやつがグリッドマンなのかなあって感じました。
みんなの中にグリッドマンはいる
僕たちは世の中に自分を投げ出して、世界との軋轢の中で本当の自分の価値を客観視できたり、他人との絆を深めたり、誰かを愛したり、愛されたり、嫉妬したり、憎んだり、許したり、満ち足りたり、渇望したりして、成長していくって思ってる。
ただ、その覚悟がなかなかできなくて悶々とするわけなんだけど、初めての一歩っていうのはやっぱり勇気がいる。
その勇気っていうのがグリッドマンなのかなあ…
そうだとすると、自分が成長していくのには決断が必要なんだけれど、その一歩踏み出すための勇気が必要で、それは誰の中にもあって…
つまり、みんなの中にグリッドマンはいて、誰でもグリッドマンになれる。
そんな話でも良いかなあなんて思って見ています。
一緒に見ている息子も、いつかは自分で見つけなきゃいけない事がたくさん出てくる。
それは良いこともあるし、ありがたくない事だってたくさんあるだろう。
でも、その先には必ず幸せがあるものと思っている。
現実と向き合うのが辛い事だってあるし、道へと向かうのは不安ばかりだ。
だからそうかそんな時、僕たちの中にはヒーローであるグリッドマンがいて、僕たちもそうなれるんだって事を思い出して、一歩踏み出したいなあ…
そんなふうに思いました。
残すところあと少しですが、きっと大団円を見てまたじんわりするんでしょう。
どうあれ、グリッドマン、なかなか良い作品じゃないか、そう感じています。